悪人

言ってみれば、こう言う映画も観念的というのかもしれない。
プロットが透けてみえるというか、頭の中で考えた範囲でしか描かれていないという意味でしかないが。要するに現実が描かれていないと言うということだ。
物語の舞台は佐賀と長崎だが、それぞれの土地の匂いが全く感じられない。風景は写っているけど生活描写がないからである。

 主人公の男の家族と職場、女の職場も紹介はされているが描かれているとはいえない。
女が、自転車で自宅と職場を往復する場面、売り場で愛想笑いする絵柄、ふと外を見るといつもと変わらない景色の挿入、男が訪ねてくると、好奇と嫉妬の目で見られるという設定。すべて閉鎖性という象徴である。
説明に終わっている。加えて、彼女は言葉でも自分の生活を説明している。
相を練るとき、全体のテーマ、それに基ずく構築、そのための素材を集め選び、考え推敲していくわけだけど、それぞれに現実感をもたせ詳細を埋めてゆくと、設計図が幾重にも塗り替えられてバランスが崩れ、元が見えなくなってきて再び書き直す。そうすることで作品が形を成していくわけだけど、この映画には、その跡がみえない。

 文化が形成される時、人は理想的な観念をもち、現実にぶつかり、挫折し考え修正し再び構築していく。そういうことを繰り返し、文化は形作られ、塾生しやがて腐り、分解してゆく。
文化形成のどの時期に生まれるかによって、現実に対する認識がちがってくる。大雨で増水した河を歩いて渡るのと、車で通り過ぎるくらいの違いがある。
ここに登場する男と女、そして老婆にどんな現実がみえていたのかはわからない。生活描写が甘いからである。

 地方の閉鎖性、劣等感、焦燥、そういう漠然とした抽象的なイメージしか伝わってこない。自分達が引き起こした事件によって、ようやく自分達だけの現実がみえてくる。
現実に甘い人間は、現実に対して抽象的な概念をもちがちになる。彼らは自分の世界に閉籠もるか、破滅の道をとるかである。ここに出てくる人々も、型どうりの展開をしていく。灯台という原風景に閉じこもり、追い詰められ開き直る。

 結局、女を殺すことができず、悪にもなりきれず堕ちてゆく。
被害者の父が、娘を殺した男ではなく、彼女が憬れていた若者を追いつめていくことで、彼を、言いようのない、得体の知れない現代の犯罪の象徴としたいのかもしれない。彼ら若者とそれを生み出す土壌、その間に事件を起こしてしまった主人公がいるという構図だろうが、ここには何も描ききれていない。
説明があるだけだ。もし、そこに気がついてないとすれば、それこそ悪である。

(2011/06/04 キネマス)