あしたのジョー

かつて「我々は、あしたのジョーである。」と言い残して北へ亡命したアナーキストたちがいた。
しかし、私には、負けて明日を生き延びたジョーよりも、今日に命を賭け死んでいった力石の方が好きである。

 昭和40年代の読者は、ノーガードから繰り出すクロスカウンターに魅了されていた。いわゆる肉を切らせて骨を断つという戦い方は、今でも日本人の好きなスタイルだろう。
ベトナム戦争、学生運動が激化していた当時、あらゆるものを思想的にみる風潮が席捲し、このボクシング漫画も、特に大学生によって政治的に読まれていた。
高度成長経済に対する批判が頂点に達しつつあった時であり、戦後文化がひとつの区切りをつけようとしているときであった。
敗戦を経験し、すべての価値観が覆され、新たな現実を直視せざるを得ず、そこから新しい文化が熟成し、その転換期にきていたのである。
当時の学生は、父親の姿から何もない現実を感じ、彼らが育てつつあった文化の全体像を見渡せる世代だった。

 それから半世紀近く経た現代、今の若者は、何もない現実を見ることはできないし、それを感じるには相当の勉強と想像力が必要になる。
それでも、そこから思想を展開しようとすると抽象的にならざるをえない。現実にいくつものフィルター、虚構がかかっているからである。
「あしたのジョー」を今見るとき、当時の矢吹丈をイメージすることはできない。背景の現実がないからである。

 だが変わらない現実もある。己の肉体である。
そして、自分の居場所を求めようとするモチベーションである。力石が計量台に載るときの身体は、本物の ボクサーをも唸らせるものがあるのではないか。この肉体のリアル感が、この映画の命である。
そして、このリアル感が、スタッフ全員の原作に対する思い入れを体言している。

 何がそこまで惹きつけているのか。
昔、犯罪は社会との関わりのなかで描かれていた時代があった。今は罪を犯すのを世の中のせいにするなという。それだけ社会は個人と対立するものではなくなってきている。個のモノローグ性が強くなっている。それはボクシングやサーカスがスポーツと変わり果てていることと無関係ではないだろう。
対戦相手にたいする憎しみや、社会に対する恨みがすっかり抜け落ちているのである。
ジョーが力石を認めるのは、戦った後である。戦う動機は、やはり情念でしかない。それが今のスポーツには感じられない。

 残念ながら、この映画にも希薄である。それは映画のせいではない。そういう環境なのだ。
文化を積み重ねて、色々なものを身近に獲得し、失くしたものに気がつかない。まして失くしてしまったものが現実だとは、誰も思いたくないだろう。だけどこの映画をみると、そういう事を実感せざるを得ない。

(2011/06/04 キネマス)