かいじゅうたちのいるところ

原作の絵本から受けるイメージを大事にしつつ、それを勢いにして映画を観にいった。絵本の世界が見事に映像化されていて、主人公の感情を体験する事ができた。 kaijyu

 こういう類の映画を云々言うのも興がない気もするが、監督がスパイク・ジョーンズとあってはその創り方が気になるところである。やはり、「マルコヴィッチの穴」を想わせるものがある。

 主人公が怪獣の島で巻き起こす騒動は、プロローグに描かれているように、全て彼の家で一度体験している事柄ばかりである。主人公の少年マックスと姉、母、そして彼女の男友達。更に言えばマックスのなかには、王様とかいじゅうが棲む。

 マックスにとっては、家の周囲はもちろん家の中も冒険する処で溢れた場所である。冒険はいつも身を危険に晒す。だから雪合戦も彼にとっては実戦である。効果音でその臨場感を裏付けている。そして戦いから帰った少年は、床に体を横たえ椅子に坐っている母の足を撫でる。子ども動物が親に甘えて傷を癒している図である。
 そして子供が大人へと脱皮する、というのがこの映画のポイントである。

 スパイク・ジョーンズは、「マルコヴィッチの穴」でメディアを通してしか生活できない情報化社会で自己を亡くした人間が、特定の虚構化された人物の:きぐるみ:を着ることによって、他者を演じる興味を覚え自分に成ってゆく。演じている者が、演じているキャラクターに押し殺されているのを覚えて、:きぐるみ:から脱皮する過程が描いていたわけだが、成功していたとは思えない。

 今回は、それほど複雑でもないし、いい原作に恵まれたこともあってキレイにまとまっている。
 マックスは母の行為を受け入れることができず、家の中のテントに引きこもり、狼の着ぐるみに引きこもり、さらに:物語:のなかにひきこもる。ところが、物語の中でも同じ問題に突き当たる。親友と理想の家を造ろうとしたとき、そこにも自分だけの逃げ場を造ろうとして友の気持ちを裏切る。だが、今度ばかりは逃げられない。物語を創ったのは少年自身だからだ。彼は物語を閉じることをきめる。自分を自分でみる力がついたのだ。自覚に基く決断をして家に帰った時には、眠っている母を見守る優しさも身に付けていた。見事な脱出劇に仕上がっている。

 とはいえ、この映画を理屈でいってもつまらない。見終わった後、自分の中の:かいじゅう:が目覚めないと意味がない。今の世の中、自分の内側の王様がすべてを支配して、かいじゅうが、暴れる隙がないように思える。物語というのは:かいじゅう:を目覚めさせる装置を内包している。この映画は、そういう物語の面白さを伝えてくれる。スパイク・ジョーンズが映画を撮る理由もそこにあるに違いない。この映画を観てそう感じた。

 タイトル かじゅうたちのいるところ の 入り口と出口

(2010/01/31 キネマス)