ミリオンダラーベイビー

イーストウッド作品を見るたびに感心させられるのは、その器用さと手際の良さだ。『許されざるもの』以来、孤独と老いと死というテーマが一貫して底辺に流れている。今回もその例に漏れない。
 文学的なモチーフを娯楽作品に構築し直す手腕は実証済みだ。特に今回は、娯楽という要素にこだわっているように見える。

 主役の女性の貧しい生活描写として、ウエイトレスをしている彼女が、客の食べ残しを持ち帰るシーン。夜遅くまで一人残って練習して、モーガン・フリーマン扮するトレーナーが、彼女に近づくシーン。もう一つ例をあげると、ジムの中に少し風変わりな練習生がいるが、このキャラクターは、アメリカ映画では伝統的で、その使い方も昔から使い古された技術である。
 普通は、こういう在り来たりを避けようと工夫する。
 何故、娯楽映画の典型的な方法にこだわるのか。極め付きを言えば「見世物に成り下がった女子ボクシング」など、どうして撮る気になったのか。

 モーガン・フリーマンのモノローグが物語を導いてゆく。「ボクシングは尊厳のスポーツである。勝者が人間の尊厳を全て奪い去る。」という言葉が耳に残る。
 三人の人物が登場する。
 イーストウッド扮する主人公(A)は、長年のパートナーである黒人(B)という友人がいる。これはフリーマンが演じているが、(A)は元ボクサーの(B)の失明と引退後の生活に自責の念を抱いている。止める責任がなかったとはいえ、無理な試合を続行させ、選手生命を絶つ結果をもたらした一因を担ったからだ。この事が(A)のその後の人生に大きな影響を与える。
 タイトルマッチとは言いながら、未熟な選手に、生命を危険にさらしてまで戦わせていいのか。彼は、命と人間の尊厳の関係のバランスを見失っている。
 友人(B)は、(A)に人間としての信頼は置いているが、マネージャーとしては失格だと考えている。
 人生に、そうチャンスはない。男は負けると分かっていても、戦わなければならない時がある。自分にとって最後となった試合も、悔いはない。事あるごとに、金の事で小言を愚痴り、大きなチャンスを人に持っていかれる。そんな(A)を見ていると、仕事の張り合いも失せてくる。もっとも、試合ができなくなった自分に失望し、靴下に穴が空いても平気なほど自堕落になっていることも間違いないが。

 或る時、例の風変わりな練習生が、ジムのボクサーに嬲り者にされているのを見て、(B)はその男をK.O.する。その時彼は自分の中に、かつてリングの上で戦う男のプライドが息づいていることに気づく。と同時に、自分が生きていく根拠地がジムにあることを自覚する。
 そして、主人公、ヒラリー スワンクが演じる女性ボクサー(C)。
 彼女が背負っているものは家族である。父親を子供の時に亡くし、母親と弟、妹とトレーラー暮らしをしている家族のために一攫千金を狙う。失われた家族の回復のために、彼女は戦う。
これが、各々の背景である。

 (A)が家族を失った訳は書かれてない。彼は教会に通うが、神を信じているわけではない。家族に会うために通っている。彼にとって、教会は仮の家である。
 (C)が家を買って、自分の家族に知らせるエピソードがある。
 彼女の期待に反して、母親は自分の生活を守ることしか考えられなくて、喜んでくれる様子はない。(A)はその様子を遠くから見ている。そこに、自分が家族を失った理由を見たかもしれない。その帰途、二人は店に寄ってレモンパイを食べる。「本物のレモンを使った、本物のレモンパイ」という言葉が耳に残る。この二つのシーンの間に、彼女の口から亡き父と犬の逸話が語られる場面があるが、ここだけを採ってラストシーンの前振りと取るとつまらない。この映画には二箇所重要な場面があるが、ここはその一つで、登場人物が人生を模索するうえでキーワードになるところである。

 もう一箇所は最後の試合の場面で、その模索の動機づけになるところだ。
 (C)の試合の相手は、反則を平気で使う。だけど、客はそれを支持し熱狂する。だからチャンピオンは、それをトレードマークだと考えてしまう。(C)も、そういう相手とわかっていながらゴングが鳴ると、油断して反則を許してしまう。審判も客の人気で、判断のタイミングを誤る。
 そしてセコンドは動転して、(C)を迎えいれる準備が十分にできていない。全てのところで、それぞれ奇妙な認識のずれがおきている。そして、皆、判断を誤る罪を犯している。通常なら、リングの上で(C)が意識を失う描写で十分だし、その方が相手に憎しみが増し(C)は同情を得る。しかしイーストウッドは、セコンドにもミスを犯させ誰が見ても彼女に重大事が起きた事をわからせる。(リング上で意識を失うだけだと、事の緊急性がわかるのは外の病院で、それを知るのは(C)の関係者だけになる。)椅子を使ったのは、重大性を際立たせるためである。
 誰もに、ここで重大なことが起き、すべての人がそれに対して一因を担っていることを認識させる必要がある。この部分は、「ミスティックリバー」の色合いがある。イーストウッドは、このリングでの出来事を今の世界状況と考えているようだ。だから、チャンピオンの行為とセコンドのミスを、物語上のケレンと見るとテーマを見失うことになる。

 (C)が全身麻痺状態になった時、(A)は当然衝撃を受けるが、ある生活を思い浮かべる。これは、ある意味彼が求めていた生活形態のひとつかもしれない。そうすることで、自分の罪の意識を消化できるかもしれないし、彼女に対して家族の愛情を抱きはじめている。ところが病状は悪化し、彼女のプライドはこの状態で生きていくことを拒絶する。
 (A)は決断しなくてはならなくなる。
 人間の尊厳と生命、これを二項対立としてとらえると永久に答えはでてこない。彼はこの問題を自分の状況に沿って考えることにする。
 これは、自分たち二人の間に起きている問題だ。自分も彼女にも家族はいないも同然だ。そして彼女は今、威厳を持って戦っている。ならば、自分はセコンドとしての務めを果たさなければならない。自分たちは、まだ戦いの途中なのだ。そして戦いを終えて共に家へかえる。これが、彼の結論である。
 イーストウッドは、ここで倫理の問題を持ち出しているわけではない。家を作り家族を護る者が持つべき条件としてのプライドを訴えている。(C)がこれまで持てなっかた物を、今目の前の女に見たわけである。その行為は、彼女に対しての敬意であろう。

 この映画は、ボクシングを素材にしているがボクシン映画ではない。試合のシーンを省略しても、ドラマは成立する。それでも敢えて、試合のシーンを前面に出したのは、娯楽性のためだけではないだろう。 映画のなかに、二度ホームメイドという言葉が出てくる。これは、ホームメーカーという言葉を連想させる。ブレッドウイナー(主人)に対して主婦という意味で使われることがある。家族を護る女性である。その女達の戦いをボクシングに換喩しているいようだ。
 (C)はアイリッシュ系の設定である。そうすると、開拓移民ということを考えないわけにはいかない。移民としてのアメリカでの生活。長い歴史の中での、苦しく厳しい戦いの中で、家族を作り守り続けてきた人達の生き様を、ボクシングの試合に描いたのではないだろうか。
 もう少し視野を拡げれば、戦いは世界中でまだ続いているという事に気づく。悲惨な状況の中で、家族を守って戦い続けてる人が世界各地にいる。ひとつの家族が存在する、その長い歴史の背景を考えると、(A)の行為は自然なものに映る。尊厳は、生きる戦いに於いて絶対的な糧だからである。ボクシングが素材に選ばれたのは、イギリスと共に、アイルランドでも伝統的スポーツであり、それが、彼らの誇りを支える精神的支柱となっているからである。

 イーストウッドは、(A)が家族を失くした理由を特定していない。様々な状況、色々な理由で家族と離れ離れになっている人々に、エールを送っていると思われる。
 さて、この映画からは色々な事が読み取れるが、映画界に対する皮肉もその一つだろう。「見世物に成り下がった、女子ボクシング」同様に「見世物に成り下がっている映画」に対しても憤りをみせる。エンターテイメントでも上質のドラマはできる。それを証明するため、敢えて娯楽的要素にこだわったのではないだろうか。
 付け加えれば、映画の質の悪化は観客にも一因があると言っているようだ。映画の最後の試合の構成を見ると、一番悪いのはチャンピオンではなく、反則を支持している客である。これは、『許されざる者』に出てくる保安官に対する視線と同じである。
 映画作りの現場も家族のようなものである。「本物のホームメイドを」というのがイーストウッドのプライドだろう。

(2005/12/12 キネマス)